日本国尾辻 秀久|おつじ ひでひさ|
ライブラリ

メールお問い合わせはこちらから

尾辻秀久 尾辻秀久HOME プロフィール 政策・理念 活動履歴 ライブラリ お問い合わせ
尾辻秀久

君達に伝えておきたいこと

鹿児島玉龍高等学校創立七十周年記念講演
平成二十二年五月二十二日

 こんにちは。ご紹介をいただきました尾辻です。美しく語るとああなるという紹介でありまして、今日、今から聞いていくと、とんでもない紹介だったんだなということがわかると思います。
 尾辻です。これでも立っています。足が短いものですから、立っているのに、あまり喜ばないでください。「しゃんと立て」とよく言われるので。しかも今日はスリッパになって、低い背がさらに低くなっておりますから、誤解のないように先に言っておきました。
 今、玉龍出身の参議院議員は二人です。私ともう一人、私が一年だった時の三年生、加治屋義人先輩がおられます。二人の共通点は、玉龍出身だということを除いて二つあります。一つは今言った、二人とも足が短いということであります。もう一つは、二人とも体育会系であるということであります。加治屋先輩は、玉龍が初めて甲子園に出た時の名サードだった人であります。私は、今ちょっと紹介してもらいましたが、陸上競技で一番専門にしていたのは八百メートルであります。この八百メートルでは県のチャンピオンだった時もありますし、紹介してもらったように箱根駅伝を走ったこともあります。
 今はあまり行われなくなった種目で、スウェーデンリレーというのがあります。第一走者が百メートル、第二走者が二百メートル、第三走者が三百メートル走ってアンカー第四走者が四百メートルを走るというリレーですが、私達の頃はよく行われていました。このスウェーデンリレーで、玉龍高校が鹿児島県の新記録をつくったことがあります。それまでの記録は、県の一番強い選手、優勝した選手を選り集めた選抜チーム。社会人、大学生を入れて一番強い人達を走らせてつくった記録でありますから、それを一高校のチームが破ってしまった。快挙だったと思っております。
 この時の百メートルを走る第一走者を務めたのは、私と同じ九回卒の長野祐也君といいまして、のちに衆議院議員になりました。彼は、今は議員を辞めていますが、政治評論家として活躍をしております。そして四百メートル、アンカーを務めたのが私なのであります。足は短かったけれども、足は速かったという話をしておるつもりであります。そう聞いてください。
 玉龍のグラウンドは、今も昔も一つも変わっていません。狭いグラウンドの中に甲子園に行っている野球部がいて、今もラグビー部、強いんだそうですけれども当時も県下で無敵を誇っていたラグビー部がいて、同じように無敵だったサッカー部がいて、私たち陸上競技部もいたんです。野球部のピッチャーがモーションに入る時にラグビー部がバーッと突っかけるなんていうことは、しょっちゅうありました。野球部は野球部で、まあ辺り構わずというか遠慮会釈なく、あの硬いボールをガンガン打ち込んでくるんです。私達にしてみれば野球部の球はよけなきゃいけない、ラグビー部に突き飛ばされないようにしなきゃいけない。その上、サッカー部のネットを飛び越えて走っていたわけであります。
 体育館もこんな大きな体育館はありませんでした。本当に小さな体育館でした。ただ、あまり体育館がない頃でしたから、その体育館で九州のバスケットボールの大会、九州大会があったことがあります。私、見ていたんです。玉龍が九州一位になったかと思った瞬間がありました。決勝戦、一点リードのまま試合終了のブザーが鳴ったんです。そしたら何と、そのブザーと一緒に審判が笛を吹いていました。そして、二本のフリースローが与えられて二本とも入ってしまったものだから、向こうが優勝して玉龍が九州一を逃したということがありました。まあ五十年前の話、よく覚えていると思いますが、本当に玉龍の頃の話というのは不思議によく覚えているんですね。
 バレー部のレベルというのはもっと上で全国的なレベルにあるようでしたし、体操部は、国体の鹿児島県のチームというのは玉龍を中心にチーム編成をするほどでした。今強い剣道部だとか、それから柔道はほかにもう既に練習場を持っていましたし、弓道もほかに練習場がありましたけれども、それでも狭い体育館の中、もう各運動部、練習する場所を探すのに大変な時でした。
 いきなり昔話をしてしまいましたけれども、何を言いたいかというと、私達の頃の玉龍、今も強いと思いますけれども、本当に運動部がみんな強くて県で優勝しなければ運動部の数の中にも入れてもらえないというほどでしたが、今話したように、練習環境といったら最悪と言っていいか本当にひどい環境の中で練習をしていました。私と同じ学年の高校チャンピオンになった選手も、のちに日本新記録もつくった大変な選手ですけれども、彼も高校時代はほとんど走るグラウンドがなくて、しょうがないから後ろ向きに走る練習をしたと言っていました。
 すなわち逆境というのが、私はずっとこれまで生きてきて、逆境というのが人間を鍛えるんだな。玉龍の歴史もそれを物語っているじゃないか。そう思うから、その話をしたかったのであります。君達、これから長い人生を生きていく。挫折は必ずある。挫折のない人生なんて絶対にない。これは変な話だけれども、私が保証をしておきます。必ず挫折はある。その時に、「よーし、今が自分を鍛えるチャンスだ」と思って頑張る。これが大事だと思います。我が人生を振り返って、そう思うのであります。
 私が玉龍の時に陸上競技をやっていてよかったなと思うこと、今振り返ると二つある。一つは、一生懸命練習した。本当に自分でも死に物狂いで練習したと思います。それでもなかなか勝てなかった。負けることばっかりでしたよ。ああ、人生というのか、世の中というのはこんなものだなと知っていたということは、今振り返るとよかったなと思っています。
 それからもう一つ、スランプになった時の身の処し方というか、どうやって乗り切るかという、この術を身に付けておいたのもよかったなと思っているんです。私はスランプになったら、スパッと練習をやめました。しばらく走らないと、また無性に走りたくなる。その時に走り始めるんです。人生、それは頑張れって言うけれども、ずっと頑張ることなんか、誰もできやしない。ゴムだって張りっぱなしにしていたら、どこかで切れる。頑張る時と、ちょっと息を抜く時、努力に緩急の差をつける。これは大事なことで、玉龍の時の陸上競技でそれを身に付けてきた。まあ、ほんの少しかもしれないけれども身に付けていた。このこともよかったなと、今振り返って思うのであります。

 さっきから言っていますように、私は九回卒です。九回卒というのはにぎやかで、さっき今日の委員長を務めた彼も、「白石さん」と今まで一回も言ったことがないので、急に今、「白石さん」と言わなきゃいけないなと思って「さん」を付けて変な気分になっていますが、玉龍以来、「白石」としか言ったことのない白石さんも同じ九回卒であります。にぎやかな人が多い学年であります。
 ですから、私たちが入学した時は、まだ六回までの人が卒業しただけ。本当に校歌のとおりの若い玉龍でありました。それでも、もう伝説の先輩がおられました。ちなみに、さっきからの話に出てくる稲盛さん。京セラを一代で創り上げて世界的な企業にして、今また日本航空が大変だというので頼まれて日本航空の社長になった、あの稲盛さんは玉龍一回卒でありますけれども、まだ私達が入学した頃は稲盛さんという名前は知らなかった。ただ、伝説の先輩がおられました。
 ちょっとその先輩の話をしようと思うと、後ろが気になるんです。後ろに、その頃の先輩がダーッと並んでおられて、私を「うそを言うなよ」という顔をされて見ておられるのがわかるものですから、先輩方、もし、うそがあった時は、あとで叱ってください。お願いします、と申し上げて話をします。
 その先輩は、成績といったら「超」の字を四つも五つも付けなきゃいけないほど本当にすごい人だったといいます。何しろ東大に一番で合格すると、本人も周りもみんな思っていたんだそうです。だだ、あとで進学指導の先生が、「試験終了後に自己採点をさせてみたら、あいや、一番どころか、やっと一番ビリで通っちょったど」というふうに言われたことがあります。その先生が我々に言われたのは、よく覚えている。「一番で通るつもりで、やっとビリで通る。だから上を見て頑張れ」とおっしゃったのであります。「一番じゃなきゃいけないんですか。二番じゃだめですか」というせりふが有名になりましたけれども、二番になろうと思って二番になれれば、それは人生、そんないいことはない。しかし、一番になろうと思って、大体、二番にもなれやしない。十番になればいいところでというのが、大体ここまで生きてくると、人生だなと思うわけであります。だから君達の先輩として、ちょっと偉そうに言わせてもらうならば、いつも上を見て、もうちょっと頑張ろう、もうちょっと頑張ろう、そうやって努力をしてほしいなということを言ったつもりであります。
 この伝説の先輩というのは、それが故で、そのことで伝説の人だったのではないんです。この先輩、吉野の人で毎日、吉野から裸足で歩いて玉龍に通って来られたそうであります。先生達が見かねて、下駄を買ってあげた。まだ下駄の時代なんです。そしたらその先輩、「先生方から買ってもらった下駄を、すぐにつぶしちゃ申し訳ない」、そう言ってその先輩は買ってもらった下駄は両手に提げて、やっぱり吉野から裸足で歩いて来ている。同じ校門ですよ。その校門の所で初めて下駄を履いた。どうぞ、玉龍の先輩にそういう人がいた、日本にそういう時代があったということも、ぜひ知っておいてください。日本全体が貧しかったんです。日本が戦争に負けたんです。
 今、沖縄の基地の問題がいろいろにぎやかですけれども、勝ったアメリカが米軍が、日本に占領軍としてやって来て日本全体を支配していた。うそじゃない。本当に私が子どもの頃、腹いっぱい食ったという記憶はありませんよ。日本全体がそんな時代なんです。その時の米軍の司令官、一番の大将だった人はマッカーサーという人です。彼が退官をして、いよいよ現役を退く時にアメリカの議会で演説をしています。有名なせりふを残しています。「老兵は死なず、消え去るのみ」。私も、そろそろその時になっています。今日は、消え去る前に君達に語りたいことを、これまでの話でもわかると思うけれども、大変とりとめなくなるけれども、とりとめなく語っておきたいと思うんです。題して、「伝えておきたいこと」。残りの時間、もうしばらく付き合ってください。

 夕べ、考えました。君達に何をしゃべろうか。そして五十年前、私も君達のほうに座っていた。早いですよね。人生五十年、あっと言う間に来るからね。そういう意味では一日一日、大事にしてください。五十年前、そっちに座っていた。その時に、いろんな人のいろんな話を聞いた。何を聞いたんだと思って思い出そうとしたけれども、全然、話をしてくれた人に申し訳ないけれども思い出さなかった。
 一つだけ思い出した話があるんです。椋鳩十先生のお話ですよ。椋鳩十先生というのは、日本の児童文学の大家です。この先生が特別の特別の、またその特別の人しかアメリカに行けない頃にアメリカに行った。その時の話です。アメリカへ行けば、当然ホテルに泊まらなきゃいけない。ホテルの人が出てきて、「おまえの風呂の好みの温度は何度であるか。その温度を言え。その温度にセットしておこう」と言ったんだそうです。その頃の日本、どうやって風呂に入っていたか、わかりますか、知っていますか。風呂桶に手を突っ込む。ぬるいと思ったら、しょうがないから裸のまま自分で風呂の焚き口の所に行って、薪をくべて火を強くして、もう一回、風呂の温度を上げて入る。熱いといえば自分でまた水を汲んで入れて、ぬるくして入る。日本中探しても、間違っても絶対に一人として自分の風呂の好みの温度なんて言える人がいるわけがない。
 しかし椋先生、日本の文化人を代表してアメリカに渡って、「知らない」とは言えなかった。そこで先生、考えたんです。先生は日頃、物事は中庸をもってよしとする考えの人なんだそうです。上でもなく下でもなく、右でもなく左でもなく、ほどよく真ん中がいい。これが先生の考え方なんだそうです。であるならば、水は零度から百度までです。零度から下がれば凍る。百度から上がれば水蒸気になる。真ん中は五十度だとすぐ出てきますから、先生、「私は五十度の風呂を好む」とおっしゃったんだそうであります。ホテルの人、握手を求めてきたそうですよ。「長い間、私はホテルに勤めておるが、あなたのような豪傑に出会ったのは初めてだ」と言ったので、先生、おもむろに「私は日本においては、毎日五十度の風呂に入る」。そうおっしゃったんだそうですが、五十度の風呂は手も浸けられなかったと言っておられました。この話を一つ、思い出しました。
 その時、私が思ったことを思い出したんです。そうか、「中庸をもってよしとする」か。おれも、できることなら中庸で生きていこうと、五十年前にそっちに座って、私もそう思ったんです。何しろ私は一言で言うと、落ちこぼれですからね。小学生の学芸会は、「ずっとその格好をせえ」と言われて、せりふはたった一つ、「それがいい、それがいい」と言ったら終わります。時々、「そうしよう、そうしよう」という一言が加わって、ある時ちょっと出世しまして、浦島太郎のワカメをしたことがある。そしたら、おまえだけほかのワカメと違う方向に揺れたと怒られて、またその他大勢に戻った。だから、これは中庸だと思った。ところが中庸をもって生きようとした私が、とどのつまりは波瀾万丈に生きていかなきゃならぬ、これまた人生だと思います。君達の人生、何が起こるかわからない。だけど、その時に「もうしょうがない。覚悟を決めて、どーんと来い」と言ってください。それが私は玉龍魂だと思っています。

 私も小学校に上がる前に、正確に言うと三歳の時に父親が戦争で死にました。母親が一人で育ててくれたんですが、さっきちょっと紹介してもらったように、二十歳の時にその母親も死にましたから、二十歳の時には両親がいなかった。いたのは高校生の妹一人です。まあ、高校生の妹ぐらいは何とかしなきゃ、それが兄貴の務めだろうと思ったから鹿児島に帰って来た。とにかく仕事を探さなきゃいかんと思って一生懸命、仕事を探したんだけれどもね、これまた日本にそんな時代があったということは知っておいてください。その頃、片親というだけで就職は絶対にだめでしたからね。会社へ行けば、はっきり言うんですよ。「片親の子どもなんか雇って、会社の金を持ち逃げされたらたまらん。だめだ」と言うんですよ。ましてや両親がいない私だとか、就職できるわけがない。あんまり腹が立つから、会社で言ったことがありますよ、「何でおれを雇ってくれないんだ」と。その時言われたのは、「うちは慈善事業ではありません」と、はっきり言われました。今、私が政治の世界で生きているのも、その一言故と言ってもいいと思います。まあ、あんまり政治の話は今日は場所じゃないから、やめておきますが、そのぐらいまでは話をしておきましょう。
 話は飛びますけれども、その妹が純心の先生になったんです。純心は、妹からすると母校なんです。私の玉龍と同じ立場です。そんな時代ですから、母校が、どうせ就職するといっても大変だろうから母校に戻ってこいと言ってくれて、戻らせてもらって純心の先生をしました。純心で新体操の監督をして、十二年連続日本一になった。さすがに十二年連続日本一になったものですから、県民表彰をしてあげるということになって県民表彰を受けたんです。その表彰式の時、私は思いました。高校の時に既に両親がいなかった妹が、親がいないから両親がいないからといって負けちゃいけない、負けたくないとひたすら意地を張って生きてきて、まあその結果が県民表彰なんだけれども、本当は県民表彰なんか要らんから、おやじやおふくろが生きていてくれたほうがよっぽどよかったのになと、そう思いました。
 私が君達に言いたいのは今、君達が生きているこの平和な時代、平和な生活、ささやかと思うかもしれない、平凡と思うかもしれない。しかし、そんな人生を生きてきた私からしてみれば、一番大事なものです。何か道徳の授業を始めるようだけれども、ご両親にも感謝をしてほしいと思うし、今の君達のこの、ささやかに見えるだろうけれども、その生活、これはもう絶対に大事にしてください。そして言っておきたい。本当の戦争、漫画ではない、ドラマでもない本当の戦争というのは、とてもとても口で表現できないほどに悲惨で悲しいものです。このことだけは、今日、君達に言い残しておきたい。戦争というのは、あまりにも悲惨で悲しいものです。
 いろんな人生、生きてきた私ですけれども、先ほど校長先生に紹介していただいたように、一番ハチャメチャな時代というのは二十五歳からの六年か七年です。五年間、全く日本に帰って来なかった時もあります。当時の言葉でヒッピーと言いました。今の言葉であまりピンとこないんですが、多分バックパッカーと言うのでありましょう。世界中を放浪していた。この時の話を始めると二時間でも三時間でもしゃべるし、もしご希望でしたらもう一回来いと呼んでください。その時の話だけを、それこそ二時間でも三時間でもしますが、今日は一つだけ話をしておきましょう。

 サハラ砂漠を車で縦断したことがあります。世界最大の砂漠。草一本も木一本も、どこへ行っても生えていない、不毛の場所です。ゴツゴツとした石の所もあるし、サラサラとした砂の所もある。
 ゴツゴツっとした石の所もあるし、さらさらっとした砂の所もある。このさらさらっとした砂というのが一番、始末が悪い。もう本当に細かい砂ですからね。帰って来て写真展をしたんです。そのサハラの細かーい砂を持って帰っていましたから、その写真展の会場に置きました。「これがサハラの砂です」と展示したのです。しかし誰一人、砂だとは言わなかった。みんな、「これは黄な粉じゃないか」と言う。「黄な粉かどうかなめてみれば」と言うと、物好きな人はちゃんとなめる。なめると、ちょっとザラッとくる。それで「おお、砂だ」というくらいの、本当に見た目、黄な粉と全く変わらない砂。みんながこうやって手に取って、どんどんどんどん少なくなったものですから、今だから正直に言うんですが、最後は本当に黄な粉を混ぜた。
 そんな細かな砂の上を、どうやって車で走るか。普通に車だと走れやしませんよ。三メートルぐらいの鉄のはしご、それを砂の上に置いて、その上を車が走れるようにする。当然、車は三メートル前進するとパタッと砂の上に落ちる。しょうがないから、また脇からパッと車の前にその三メートルのはしごを差し入れ、車を走らせる。尺取り虫で前進するわけであります。ハッと前を見ると、本当に地球は丸い。何にもない砂が、地平線までずーっと続いていて丸く消えます。右も左も後ろも、みんな消えている。その時、私は地球は丸いということを知ったのであります。だけど、言っておきます。地球が丸いということを知るために、あんなばかなことをする必要は全くない。命まで賭けることなんかないんです。途中で消える人は、よくあるんです。けれど、死んだということはわからない。そんな砂漠の中だから誰にも見つからないし、誰にもわからない。ただ入って行って出て来なきゃ、死んだんだろうなというだけのことであります。そんな所で三メートル刻みの尺取り虫をやっていれば、誰に言われなくても「おれはばかだなぁ」というふうに思います。しかし今言ったように、地球は丸いというのを私は実感した。それと、たまにラクダの隊商たちがやって来る。そうか、人類というものはこんな過酷な条件の中でも、そこを生活の場として生きている人達がいるんだな。これは大変に感動いたしました。地球上にはいろんな人が、いろんな思いで生きているのです。
 私達の常識で世界を測ったら、まずいです。グローバルな時代を生きていく君達には、このことを伝えておきたいと思うのです。地球は丸い。だから世界を君たちが今後考える時は、ぜひ地球儀で考えてください。世界地図で考えては、まずいと思います。大体、丸い物を平面で考えるのは無理。それともう一つ、これホワイトボード、何かに使えということで用意してあるんだろうから、何も使わないと用意してくださった方に悪いので、これから一回だけ使います。〔ホワイトボードに世界地図を描く〕。これだけ描けばわかるでしょうが、世界地図です。真ん中に日本です。この一筆書きを覚えたいという人、あとで描き方を教えてあげます。要するに、これを私達は世界地図だと思っているんです。とんでもない。日本が真ん中にあるのは、日本の世界地図だけなんです。ヨーロッパに行けば、何で日本が真ん中にあるんだと言われます。ヨーロッパでは日本は東の外れ、落ちる手前でなんとか載っかっている。そんなもんであります。オーストラリアに行けば、「何で南半球が下なんだ」と言われるでしょう。ひっくり返して南半球が上の地図がいくらでもあります。要するに、この一筆書きの世界地図の感覚で世界を見たら、やっぱりおかしくなる。いろんな人がいろんな場所に、その人にとってはそこが自分の中心と思って生きている。みんなにとっての世界の中心地なんていうのは、どこにもない。ぜひそう思って、今後生きていってほしいなと思っております。
 さっきから時計を見ております。時計を見ているのは、時間を計っているのも確かにある。しかし正直に言いますと、これは私にとってはおまじないです。今までの私の話を聞いている君達からすると、私が気楽にしゃべっているように見えるでしょう。だけれども緊張しているか、していないかと言われると、まちがいなく緊張しています。上がっているか上がっていないかと言われるなら、上がっているんです。人間、みんな一緒です。どんなに私が毎日のように人前でしゃべっているからといって、やはり上がる。人間、鉄人なんていうのはいない。みんなおんなじ人間だということは、ぜひ知っておいてください。だから私も上がるから、おまじないをします。さっき気がついたかもしれませんが,壇に上がった時に時計を外しました。そして時計を見て、『上がるなよ、できるだけ上がらないようにしろよ』と、自分におまじないをかけています。君達も今後、人前で話をする機会があるでしょう。その時にやはり上がるので、何か工夫をするでしょう。その時に私のおまじないも試してみてください。結構、効果的だということに気がつくでしょう。 
 そこで残りの時間、最後の話にさせていただきます。

 私はよく、誤解されているなと思うことがあります。それはさっきの紹介の中にもありましたように、経歴の中に”東大”の二文字がある。玉龍の時に成績が良かったのではないかという、とんでもない誤解であります。本当の話をすると、卒業の間際に、最後の試験は五十人のクラスの四十七番でした。よく覚えてます。後ろに三人もいたんです。家に帰っておふくろに、「後ろに三人もいるから赤飯炊いて祝をせえ」と言って、おふくろから「ばかなことを言うな」と怒られたので、よく覚えている。今日は真実を語っておきたいと思います。
 そもそも、何で東大を受験したかということです。さっき言ったように、鹿児島に帰って仕事を探そうにも仕事は全くない。しばらくは丁稚奉公みたいなもので食いつないでいましたが、そうもいかずに学習塾を始めたんです。これは気分良かった。玉龍の時に言われたとおりに、子どもたちを集めて言っていたんです。「おまえ達の脳みそには陽が当たっちゃおらん」。江戸の敵を長崎で思う存分討っていたのでありますが、そうなると子ども達から反撃を食らう。「おまえは何だ」と言われて、よせばいいのについうっかり、「おれの脳みそには陽が当たりっぱなしじゃ。東大なんか受けりゃすぐ通る」と言ったもんだから、引っ込みがつかなくなった。それで受けざるを得なくなった。私の玉龍の時の担任の先生は、受験の神様と言われた先生でした。よく言っておられましたね。「受験というのは間違って落ちることはしょっちゅうある。しかし間違って通ることはない」、そう言っておられたのです。その神様が“ない”と言われたことが起きたのが、私のケースなのであります。私が東大に通ったら、友人みんな喜びましたよ。「おまえが東大に合格したことによって今後、東大卒という人間に出会っても、しょせんおまえ程度だと思うならば、びびらずに済む。おまえはいいことをした」と言って皆、喜んでくれたのであります。
 実は、私も同じことを思っていたのですよ。ここに一枚のコピーがあります。一九五九年(昭和三十四年)、私達が卒業した年ですが、その年の東大入学者数、高校別のランキング。ある人が送ってくれました。当時は、玉龍高校は全国の四十五番目に登場しています。ちなみにその九番後ろの五十四番目にラ・サールがあります。さらにその二十二番後ろ、従って玉龍から三十一番下がって七十六番目に鶴丸があります。その時の玉龍の現役の合格者は四人。浪人が四人で、全部で八人が東大に入ったんです。ちなみに、この時の現役の合格者は玉龍四、ラ・サール四、鶴丸一です。その鶴丸の一人の現役合格者は女性でしたが、この人は私と中学の時に同じクラスでした。あとで浪人して一人、私の学年の同級生が東大に入っていますから、つまり中学の同級生まで入れると同級生が都合六人入ったことになります。それで自分が受ける時に、まあ同級生だから“そいつら”と言いますが、そいつらの顔を思い出して、「まあ、あいつらが通るんじゃから、おれが通ってもそう不思議でもあるまい」と思ったのは確かなのであります。
 さっきの挨拶のなかにも出てきましたが、玉龍はチーム力、チームで頑張る学校と言われました。その受験の神様も、「受験というのは殴り込みみたいなもの。みんなでドーッと勢いをつけていくと、気がつけば皆入るんだ」と、そう言っておられました。だから、その頃の玉龍の受験というのは、みんなで大体まとまってドーッと行くんです。一人というのは本当に珍しい。例えば、私の学年でも一橋に行ったのがたった一人です。今、鹿児島で一番大きい会社の社長をしている同級生が一人しかいない。大体はまとまって、みんなどこかに入っているというわけです。そういう校風、今もそうなんだなと思ったから、そういう話をしました。
 今振り返ると、そういうチーム力と団体戦得意の学校にいた。そのことが私にとっては、この上なくありがたかったと思うんです。団体戦あり、そして、それぞれみんなが役割を持っている。私の役割なんて、ずーっと殴られる係でしたからね。あれは係なんだと思っていました。先生がクラスのだ誰かをぶん殴って、その場を収めなければならない。誰かがその係をしなければならない。しょうがない、ずっとその係をやってきた。カラスが鳴かない日があっても、私が殴られない日は一日もありませんでしたから。
 数学の先生なんか、私を殴るのを明らかに趣味にしておられた。授業は必ず、「尾辻立て」というところから始まるんですから。そして「予習をしてきたか」とまずお聞きになる。一緒に「うそは泥棒の始まりだぞ」ともおっしゃる。しょうがないから、そこまで言われれば「してきてません」と言った瞬間、「ないごて、してこんとよー」と言って一発目の竹の口がバシーッと下りる。二発目は「おまえのビンタは打ってみたどん、よか音が出らんかったが悪い」と言って、殴られるわけであります。あとは、「よか音が出るまで打たにゃいかん」と言われれば、どこまでも行く。最後は竹が割れる。「おまえを打って割れた竹だから、おまえがどこかで切ってこい」と言われて、授業なんか受けさせてもらえる暇はないんです。毎日殴られるから、たまにはうそを言って打たれない日があってもいいだろうと思って、「してきました」と言った途端に、「うそを言うな!」と殴られる。どちらでも一緒というのを悟ったわけです。
 よせばいいのに英語の先生に「先生のおっしゃったことと私の辞書に書いてあることが違う」と言ったことがある。先生はしっかり、「おまえの辞書はいくらか」とお聞きになった。我々の頃は三百円でした。「三百円です」と言った瞬間に、「おれの頭が三百円よりも安いかー」と言って、顔が変形するくらい殴られました。その時に私は悟った。そうか、将来、自分に天から与えられた仕事、天職をやる時には、これくらいの迫力と自信を持ってやらにゃいかんのだろうなと思ったのです。そう思ったのですが、まだその恩師の域には達していません。
 とうとう最後に(殴る)理由がなくなった先生がいる。最後に「おまえのツラが気に入らん」と言って殴られました。この先生は、私が玉龍を卒業してから大変な手術をなさることになって、本当に大手術だったんです。輸血をしなきゃいかんけど、保存血、前もって用意した血液じゃだめ。誰かが隣にいて、必要になったらすぐに輸血をしなければいけない。その時に手術に付き合ったのは私です。玉龍一家という言葉が、その当時ありました。みんな一家だと思っていた。そのくらいのことはやれる。それでちゃんと私は、その一家で役割を果たしたつもりです。

 しかし私は恩着せがましく、そんな話ができる立場ではない。さっきも言いましたが、私のこんにちの立場があるのも玉龍を出たからですよ。玉龍がなければ、玉龍の先輩がいなければ、同級生がいなければ、後輩がいなければ、最初の選挙なんか通っていません。金もない地盤もない、親の七光りなんてどこを探してもない。その私が最初の選挙で当選できたのは玉龍があったからです。まだ電柱にポスターを貼る頃です。電柱にベタベタ、ポスターを貼っては怒られる。夜中にポスターを持って糊の入ったバケツを抱えて、電柱に私のポスターを貼って歩いてくれたのは同級生ですよ。その中にはもう既に弁護士になっている人、のちに九州弁護士会の会長になった人もいました。医者になった人もいます。患者さん集めて頼んでくれました。「尾辻君と私は玉龍の時に三年間机を並べていました」、これは本当のことです。彼はさっきの話を知っていますから、「尾辻君は勉強はできませんでした。宿題は一回もしてきませんでした。私が面倒を見たから、彼は玉龍を卒業できたのです。今度は選挙をしますから、また私が面倒を見なきゃいけないんです」と言って頼んでくれた。
 ここにも書いてありますが、玉龍というのは自由な学校です。本当に今もそうなんだなあと思って、嬉しくなりました。私達の頃でも自由ですから、政治の世界なんて右から左、みんなそろっていますよ。私のクラスにもバリバリの共産党員がいました。選挙の前にクラス会と称してみんなが寄ってくれる。共産党のその人も、「クラス会と言われれば来なきゃいかん」といって、やって来て、「おれの前では選挙の話をするな。聞こえないようにしろ」と言って、離れて焼酎を飲んでいましたが、しばらくして私の前に来て、黙って飲んでいた焼酎を私のコップにつけてくれました。
 福岡の九大病院に入院していた同級生がいました。ちなみに九大の学長、病院長は今では全部玉龍ですから覚えといてください。その九大病院に入院していた同級生は、本当に危なくなった。だけれども、本当にそう言ってくれたんだそうですが、「尾辻のためなら、死んでもいい」と言って医者が止めるのも聞かずに退院して、私の選挙事務所に座り込んでくれました。その後、本当に亡くなった。そういう玉龍の人達に支えられて、こんにちの私はある。これだけは私は忘れてはいけないと思うし、こんなに幸せなことはなかったと思っています。
 彼らはそこまでやってくれたけれども、一回も、誰一人として「何かやれ」と言ったことはありませんからね。鹿児島の一番大きな民間病院の院長、その同級生も私が厚生労働大臣の時に、日本の医療行政については山ほど注文をつけていました。しかし、その病院の儲けにつながることは何一つ言わない。それが玉龍の誇りであると思っています。

 いろんな玉龍の頃の話をしています。まもなく七十歳の誕生日を迎えます。わざわざこのことに触れて、誕生日プレゼントをくれという意味ではありません。ただ言えることは十月になったら七十歳になり、七十年生きてきてやっぱり一番楽しかったのは玉龍にいた頃です。神様に、「今おまえが持っているものをすべて捨てたら、玉龍の時代に戻してやる」と言われたら、ちゅうちょなく喜んでそうしてほしいと頼みます。今まさに、君達はその時を生きている。大いに楽しんでほしい、そう思います。
 私は玉龍の時に『葉隠』の《恋の至極は忍(しのぶ)恋》というのを見つけた。そうか、恋は一生忍ぶ恋が最高。忍んでやる、自分だけでもと思います。《しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで(平兼盛)》。みんなばれていた。ばれていたけれども自分だけは忍んでやるというつもりで。今なお忍んでいるつもりです。だから、女子の皆さんが着ている制服、いまだに変わりません。あなた方を見ると世界一美しいと思います。選挙をするとお世辞も上手になるから、そのつもりで聞いてください。
 私達の玉龍は玉龍山福昌寺、島津家のお墓の跡です。否応なしに私達には薩摩の血が流れている。今、自分を振り返って、本当にそう思う。大久保が最後に、自分が狙われており暗殺の予告を受けたにもかかわらず護衛を付けず、いつもの時間にいつもの所を通って果てて逝きました。その時に、ポケットに入れていたのが西郷からの手紙でした。西郷と大久保が親交を結んだのは、君達の年頃でありました。
 玉龍の同級生とは夕べもそうでしたが、今晩も飯を食う約束をしています。どうぞ今を大事にして、生涯の友を得ておいてください。君達の将来に幸あることを祈って、私の務めを終わりにします。最後まで静粛に聴いてくれて、ありがとう。

尾辻秀久

サイトマップ利用規約このサイトの利用について

トップへ戻る

後援会事務所
<後援会事務所>
〒890-0064 鹿児島県鹿児島市鴨池新町6-5-603
TEL:099-214-3754 FAX:099-206-2617
Copyright(C) Hidehisa Otsuji All Rights Reserved.